「不動心」育成ブログ

自分はダメだと感じている人は、実は向上心のある人。自分の弱さを知っているからこそ、人に優しくなれる。自分本来の素晴らしさを発見し、どんな環境にも動じない「不動心」を育成するブログです。ツイッター@shirota_usao

① 緊張は場数をこなすことで治るのか?

人生で最も辛かった緊張体験

極度な緊張から自分の言いたいことをうまく表現できない人がいる一方で、全く臆することなく、まるで台本を読んでいるかのような話ぶりで人々を魅了する人もいる。

 

同じ人間なのにこれは一体どういうことだろうか? 緊張しない人の頭の中はどうなっているのだろうか? こんなことを考えたことはないだろうか。

 

本ブログ第1回目の記事は「緊張のメカニズム」について理解を深めることから始めていきたい。緊張というものの性質を知ることで、一歩でも「緊張しない自分」に近づく方法を探っていきたいと思う。

 

まず、誤解のないように伝えておくが、こんなことを言っている私自身、根っからの緊張人間である。緊張によってこれまで人生、かなりの数恥ずかしく辛い思いをしてきた。なるべくなら人前で話す場面からは逃げ出したいというのが本音ではあるが、残念ながら人間が生きていく上で多かれ少なかれ避けることはできない場面は現れるのだ。

 

私の人生で最も辛い経験は、会社の後輩の結婚式のスピーチだった。 
当時、たぶん人前で話すのが上手いと思われていた私は、後輩から結婚式の冒頭で行なわれる乾杯の音頭を頼まれた。結婚式のスピーチは何度か経験していたため、快くOK。人生の晴れ舞台に、私を選んでくれたことはなんと男冥利に尽きるのかと感じ入ったものだ。
私は頼まれるがままに二次会の幹事まで引き受けた。

 

そして迎えた結婚式の当日、あの思い出したくもない出来事が起こってしまった。 式場で座席に着くやいなや、事前の軽い打ち合わせということで、司会者の女性がこっそり私のテーブルにやってきた。

 

「今日は乾杯のスピーチよろしくお願いします!新郎様からはとてもお話が上手いとお聞きしてます。ちなみに、お話されている間はグラスは持たれますか?」

 

「じゃあお願いします。」
言われるがままに私は頷いた。

 

それにしても、話が上手いと思われてるとはなんて気分のいいことだろう。確かに当時の私は熱血漢なところがあり、定例のミーティングでは部下の前でひときわ熱く理想を語っていたように思う。その姿を見ての私へのスピーチ依頼だったのだろう。

 

披露宴がスタートすると程なくして、ついに司会者が私の名前をアナウンスした。

 

さあ、いよいよだ。

 

私はマイクのあるところまで歩いて行く。 会場内の多数の来客が一同に私を見ている。 何度か経験した結婚式スピーチはその度に緊張するものだが、そういうとき私はあえて余裕たっぷりの態度を精一杯作るのだ。

 

しかし今日に限っては今までの経験とは絶対的な違いがあった。
マイクの前に立ったとき、いつもの結婚式のスピーチとは全く違ったシチュエーションに気付いたのである。黒のジャケットを着たホテルのスタッフが私にシャンパンの入ったグラスを差し出してきたのだ。
私はさも当然だとばかりにグラスを手にとった。
その何気ない行為が大失態の始まりだと知らずに・・・。

 

なんと、グラスを受け取るやいなや異常なばかりに手が震えだし、中に入っているシャンパンがこぼれるくらい波打ちだしたのである。私の今の状況を見て、新郎新婦、親族、友人、大勢の関係者はどう感じているだろうか? 憐れみに似た冷やかな空気をひしひしと感じながら、私は言葉を絞り上げた。

 

「乾杯・・・。」

 

私の乾杯の音頭は、わずかその一言に終わったのである。無惨にもシャンパンがグラスからこぼれだし、私の手はぐっしょりと濡れていた。ほんの短時間の出来事だったが、憔悴しきって席に戻る私に向けられた拍手のなんと痛々しかったことだろう。

 

その後、新郎にビールをつぎにいくタイミングのときに、私は恥ずかしさを無理やり紛らわすかのように、わざと気分を高揚させながら声を掛けた。 「この後の二次会で挽回するよ!」
その時の部下の反応は、あまり記憶に残っていないが、いっそのこと「緊張し過ぎですよ!」などと笑いのネタにしてくれていたほうがいくらかマシだなどと考えていたように思う。後の二次会では案の定モチベーションが上がらず、こんなことなら出席しないほうがよかったと嘆く散々な体験だった。

 

それ以来、自分は緊張してしまうタイプなんだと改めて理解した。
職場の部下からはむしろ人前で話すのが上手いと思われていたのは、実は本当の自分ではなく、完全に創作された自分だったのだ。それなりに場数を踏み、緊張しながらも人前で流暢に話せていたのは、念入りにプロデュースされた演技者としての自分。

 

作られた自分というのは脆すぎるほど脆かった。

 

緊張のメカニズムを知る

「緊張のメカニズム」を知る上で非常に重要なポイントが上記のエピソードに内包されている。 私はなぜ緊張の魔物に飲み込まれてしまったのか?

 

その原因はおそらく突如として想定外の状況が目前に現れたからだ。
ここでいう想定外の状況とは、シャンパングラスを持つという絵面であった。私がグラスを持った状態で多くの人々の目の前に立った時、緊張のあまり手が震えてしまうということをあらかじめ想定できていれば、最初からグラスを手に持ってスピーチするという愚行を選択しなかったであろう。ましてや結婚式のスピーチの場合は演台に立つということはないので、一旦手に取ったグラスを置くことはできない。
過去にそういった「体験」をしたことがあったり、頭の中でしっかり「想定」できていれば、あのような惨劇は回避できたはずなのだ。

 

体験の同義語としては場数という言葉が挙げられる。
「体験=場数」
場数を踏むことで緊張経験を蓄積し、そこから学習するのだ。
そう考えると、緊張する場面を回避する上で、場数を踏むことは一見有効な手段だとも言えるのではないだろうか?

 

しかしながら、場数という恥の経験は、短い人生のうちでもう一度登場してくるのかというと、その保証はない。私の場合、乾杯のスピーチを依頼されることはこの先何度訪れることがあるだろうか。
そしてもっと重要なことは、「場数」の数字には限りが無いということだ。
シャンパングラスでの失態は経験できたけれど、万一それをクリアしていたとしても、それとは別の緊張、またしても緊張してしまう環境が眼前に現れてくる可能性は極めて高い。目の前にいる人の雰囲気、会場の人数、来賓と自分との距離、周囲のざわめき具合など、自分を取り巻く環境は、時間の流れとその時々の場面によって全く性質の異なるものへと姿を変えるのだ。

 

場数をこなすことで緊張への耐性が出来上がり、結果として緊張しなくなるという理屈はもはや成り立たない。

 

自分に問いかけてみればどうか。
私たち「緊張人間」は、すでにいくら場数を踏んでも相変わらず緊張してしまう自分に気づいているはずだ。
 

 

自信―なぜ不安?なぜ緊張する?

自信―なぜ不安?なぜ緊張する?