「不動心」育成ブログ

自分はダメだと感じている人は、実は向上心のある人。自分の弱さを知っているからこそ、人に優しくなれる。自分本来の素晴らしさを発見し、どんな環境にも動じない「不動心」を育成するブログです。ツイッター@shirota_usao

③ 緊張は場数をこなすことで治るのか?

緊張体験から学んだ教訓

私の人生で最も苦い恥ずかしい思いをした結婚式スピーチを振り返ってみると、今さらながらに気付かされることがある。シャンパングラスを手に持って話をすれば一体どういうことになるか。私には残念ながらそれを知る術を持ち合わせていなかったわけだが、万が一もう一度やり直せるなら、どんな事前準備をするだろうかと考える。

 

シャンパンを波々と入れたグラスを片手にひたすらスピーチを練習するだろうか。 そして一言一句セリフを繰り返し、丸暗記でした後、本番に備えるだろうか。

 

今の私ならこのように考える。

 

緊張人間である自分をありのままさらけ出す準備をしよう!

「緊張してしまいそうなので、忘れないようにポイントだけ紙にまとめてきました。」
たとえば、マイクの前に立ったとき、このような一言を発することができれば、どれだけ気分が楽だっただろう。そうすることで、演技者としても私を繕うわけでもなく、ありのままの姿で来場者に接することができたのである。

それでたとえシャンパングラスで手が震えたとしても、
「皆さんの視線に腰砕けになっちゃいました。」
などと笑い話にもできるのだ。

 

ありのままの自分を出そう

「ありのままの自分。」
これは実は多くの精神病に起因している。 

「自分はこうあるべきだ。」と擦り込まれた自尊心が大きければ大きいほど、それは人生における大きなハードルとして立ちはだかり、私たちを苦しめるのだ。

 

 「人前で堂々と喋れなければならない。」
「一目置かれる存在でなければならない。」
「高所得でなければならない。

 

私たちは何とつまらない自尊心を持っていることだろう。
そしてその自尊心が大きければ大きいほど、現実との乖離に苛まれ、時には精神病を患うまでに至るのである。

 

「自尊心と現実との乖離。」
これこそが人間を悩ます根源であるなら、私たちは進んでこれを排除する思考を持ち、たとえ小さな自尊心でも、人生にとって何一つ有益ではないことを悟るべきなのである。

 

事前準備は「ありのまま」のために

そこで緊張人間がまずやるべきことは、「ありのままの自分」をさらけ出すための事前準備だ。この事前準備は、近い将来訪れるべき緊張リスクに対して幅広く対応でき、柔軟に利用できるものが望ましい。
たとえば、会合などでいきなり挨拶をお願いされたときは、いつでも次のような言葉を用意しておく。

 

「話すことをまとめたいので、5分だけ時間をください。」

 

そして手持ちの紙に挨拶の要点を書き始める。挨拶が始まると、緊張によって話が逸れるといけないので要点を書きとめておいたという旨をまずは聴衆に伝えておくのだ。こうすることで、聴衆にとってあなたは緊張しやすい人と映ることになる。
紙に目をやるときは、なるべく笑顔を作るようにしよう。紙に頼るという滑稽な姿で、聴衆の笑いを誘える可能性があるからだ。笑いというのは、自分と聴衆の心が一体となっている証拠なので、こういう状況になれば、緊張は一気に姿を消すことにもなる。いわゆる「おいしい」状態なのだ。緊張という魔物は、聴取の共感というやつに非常に弱い。
もし紙を見ずに話ができたとしたら、予想以上に話が上手かったという感覚が聴衆の中に広がるだろう。手持ちの紙がなければ割り箸の袋なども即興的でおもしろい。

 

他にも、「ありのままの姿」を表現するための事前準備を自分なりの方法で工夫しよう。事前準備はこれといった方法はなく、人それぞれのやり方で大丈夫だ。

 

場数から学ぶ「ありのまま」の大切さ

場数を踏むことは必ずしも緊張克服にはならない。しかし、場数を通して「ありのままの自分」の大切さに気付くことができれば、場数は非常に意義あるものとなる。

 社会的にも認められた立派な経営者の中にも、人前で話すのが大の苦手とする人も大勢いるわけだが、そういう人たちに共通するのは一様に「ありのまま」を表現していることだ。そしてそのことが面白いほどに人間的魅力を引き出し、最終的には信頼へと結びついていく。立石に水のごとく話せる人よりも、緊張しながらたどたどしく話す人のほうがよっぽど信用できるとは、多くの人が直感的に感じる取る事実なのである。

 

今こそ私たちは「ありのままの自分」を思う存分さらけ出し、滑稽ともいえる姿で緊張を、共感、笑い、信頼へと変える達人になろうではないか。

 

眼前の人に対していかに早く「私は緊張人間です。」と表現できるか。これが私たちの人生をプラスに変える原動力となるのである。

 

<了>