① 反論する方法
反論しないことは寛容といえるか
デール•カーネギーは、人間関係を円満にするには、相手を説き伏せてはならないと提唱している。名著「人を動かす」に出てくるこの内容は究極の真理といえるし、世界的ベストセラーとして永く読み継がれているのは、実に多くの人の悩みを解決してきた証である。
しかしながら、相手の一方的な主張に対して、寛容な態度で黙っていることが、果たして人間関係を快方へ向かわせたことがあっただろうか。カーネギーの内容というのは、あくまで双方が議論で対立していることを前提としており、一方的な要求への対処法としては少し意味合いが違ってくる。
自己主張し過ぎないことが日本人固有の美徳だとされてきたが、近隣諸国からありもしない既成事実を突きつけられた時、その沈黙がかえって大きな仇となってしまうことは、身をもって知り得た事実であろう。
社会生活においても、半ば強引に責任を押し付けてきたり、理詰めでおとしいれようとする輩が少なからずいる。これに対して「いつかは自分の気持ちをわかってくれるだろう。」と自分で自分を納得させてしまう人はけっこう多い。
もし仮に黙って相手の主張を飲むことがあれば、その後も執拗に要求してくることは間違いなく、ある時点で反論しないことには、このジレンマから一向に解放されることはない。これを世間一般では舐められているという。
反論することは大切
性善説をもって寛容な心情を持ち続けることは大切であるが、黙って反論しないこととこれとは全く意味合いが異なる。毅然と反論することは、時として互いの理解を深めることになるし、周りの人から共感を得ることもしばしばあるのだ。
しかし問題は、反論することがとてもエネルギーを使う行為であり、ストレスによる心労をともなう作業だということだ。私のように気の弱い人間は、不意に言われた言葉に対してとっさに言い返すことができない。
でも、これは致し方ない。弁が立つ人、流暢に話せる人というのは先天的な部分がかなり大きいので、口下手な人に対して「なぜ言い返さないんだ?」と問うことは、視力が悪い人に「なぜあれが見えないの?」て言っているのと同じで、これはどうしようもないことなのである。
しかし、弁の立たない、気の弱い、とっさに頭が回転しない人はずっと反論できないままなのかといえばそうではない。朴訥としたしゃべり口調の中にも、核心を付いた反論技術を駆使することで、相手の主張をガラリと覆すことは全然可能なことなのである。
そんな反論方法を紹介していきたい。
次号へ続く: ② 反論する方法【ジャブ編 2 】