「不動心」育成ブログ

自分はダメだと感じている人は、実は向上心のある人。自分の弱さを知っているからこそ、人に優しくなれる。自分本来の素晴らしさを発見し、どんな環境にも動じない「不動心」を育成するブログです。ツイッター@shirota_usao

⑤ 反論する方法 【オフェンス編 1 】

 
理詰めでまくし立てるタイプに共通するのは、必要以上に物事を難しく仕立て上げ、こちらの理解を得ないうちに強引に主張を通すところである。前号までは、質問というジャブを繰り出すことで、まずは相手の機先を封じ込める方法について述べた。一方的な主張、要求に対して黙って聞き入れている状態から、私たちは、まず議論できるステージへ移行しなければならないのだ。
 
質問による反撃が功を奏し、議論できる対等なステージに上がることができれば、次に目指すところは論戦に勝利することである。それはすなわち、自分の意見を表明し、相手に納得してもらうことだ。
 

人は感情で動く生き物

【ジャブ編】では、一方的にまくし立てられている不利な状況から少しずつ打開していく手法を列挙した。しかし、質問ばかり続けていたところで、自分の意見や考えを理解してもらうということは、はっきり言って難しい。質問による反撃で、とりあえず相手を黙らせることはできたとしても、双方理解した上で、論戦を終息へと向かわせるような本当の意味での解決策とはならないのだ。
 
議論というステージにおいては、私たちは次のことを常に念頭に入れておく必要がある。
 
「人は感情で動く生き物である。」
 
どんなに自分の考えが正しく、相手の考えが間違っていようとも、議論で相手を説き伏せることは絶対にできない。いくら根拠を明らかにして理路整然と主張したとしても、決して相手の共感を得ることはできないのだ。
 
この根本的な考えを頭に入れて議論する必要がある。
 
そして、ここでようやく① 反論する方法 - 「不動心」育成ブログの冒頭で述べたデール・カーネギーの提唱する考え方が登場する。以下は、カーネギーの著書「人を動かす」から引用した言葉だ。
議論に勝つことは不可能だ。もし負ければ負けたのだし、たとえ勝ったにしても、やはり負けているのだ。なぜかといえば仮に相手を徹底的にやっつけたとして、その結果はどうなる?
やっつけたほうは大いに気をよくするだろうが、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。
-「議論に負けても、その人の意見は変らない」
ベンジャミン・フランクリンはよくこういっていた。
「議論したり反駁したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。しかし、それは空しい勝利だ。相手の好意は絶対にかち得られないのだから。」
だから、ここでよく考えていただきたい。理論闘争の華々しい勝利を得るのがいいか、それとも相手の好意をかち得るのがいいか。
この二つは、めったに両立しないのである。
 

 議論の平行線は何をも生まない

議論というのは、たいてい平行線をたどるものだ。物事には100%正しいということはあり得ないので、いくらお互いに主張し合ったとしても、議論は平行線をたどり、解決に至ることはない。
 
だとすれば、私たちは平行線をたどることの無意味にいち早く気付き、積極的に相手に歩み寄る姿勢を見せなければならないのだ。
 
それは結局、相手の主張をそのまま受け入れろということなのだろうか?
 
それでは反論する意味がないだろう。
 
相手の考えや言い分も尊重しつつ、自分の意見もわかってもらうように努める。相互理解の上に成り立つ「調和」こそが、議論することの最終目的なのだ。
 
「どんな正論をもってしても絶対に相手を説き伏せることはできない。」
 
まずはこの考えを肝に銘じ、私たちは論戦に挑まなければならない。
 
 
人を動かす 新装版

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