② 徳川家康に学ぶ不動心の真髄
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信康殺害の経緯
今川家から嫁いでいた家康の妻・築山御前は、桶狭間の戦い以降、家康が織田に急接近したことに激しい怒りを抱いていました。その結果、なんと信長・家康の共通敵である武田勝頼に対して内通を諮ります。
信康(家康の嫡男)はこれに気付き、母である築山御前を必死に諌めました。しかし、日ごろ築山御前と不仲だった五徳姫(信康の正室・信長の娘)が父である信長に、二人が武田家に内通していると通告したのです。
これを受けて、信長は二人を殺すように家康の命じました。信長はかねてより信康の才覚に脅威に感じ、将来の織田家にとって危険であると感じていました。武田家への内通疑惑は、信康を殺害するのに丁度いい口実だったのです。
信康(家康の嫡男)はこれに気付き、母である築山御前を必死に諌めました。しかし、日ごろ築山御前と不仲だった五徳姫(信康の正室・信長の娘)が父である信長に、二人が武田家に内通していると通告したのです。
これを受けて、信長は二人を殺すように家康の命じました。信長はかねてより信康の才覚に脅威に感じ、将来の織田家にとって危険であると感じていました。武田家への内通疑惑は、信康を殺害するのに丁度いい口実だったのです。
この時、家康の狼狽ぶりは悲痛を極めたと言われています。三日間、奥の間に閉じこもり、苦渋の時間を過ごした後、家臣を呼んで、信康と築山御前の処断を命じました。 家康は切腹の命を下しつつも、信康が他国へ逃亡してくれることを神にすがるような気持ちで見守っていました。その証拠に、家康は信康が自刃するまでの間に、何度も城を移させた記録が残っています。何とかして信康が逃げられる機会を作ろうと画策していた様子がうかがえます。
しかし、信康はかたくなに自身の無実を訴え続けます。結局、幽閉先の二俣城で家臣の介錯により自刃ました。
信康死亡の知らせを受けた家康は、半狂乱のごとく頭を掻き毟り、三日三晩泣き叫びながら信康の名前を連呼したといわれています。
信康殺害事件には諸説がありますが、家康は自ら息子に切腹を命ずることになりました。徳川家を存続させるためには、当時信長との同盟は決して消滅させてはならなかったのです。
信康殺害事件には諸説がありますが、家康は自ら息子に切腹を命ずることになりました。徳川家を存続させるためには、当時信長との同盟は決して消滅させてはならなかったのです。
家康の心の根底に流れているもの
信長から屈辱の極みともいうべき命令を受けて、家康の心中にはどのような葛藤があったのでしょうか。
おそらく、信長との同盟破棄も頭をよぎったに違いありません。
自分の大切な子どもを死に追いやった相手と、平然と会話し歓談するなど到底できるものではないでしょう。
おそらく、信長との同盟破棄も頭をよぎったに違いありません。
自分の大切な子どもを死に追いやった相手と、平然と会話し歓談するなど到底できるものではないでしょう。
しかし、家康は個人的なその場の感情よりも、大義を優先させました。
血みどろの殺し合いを繰り広げる戦国時代を終わらせ、泰平の世を築き上げる。
幼少の頃から生涯を終えるまで、家康の意志は決してブレることはありませんでした。そしてこの鉄の意志こそが、ついに戦国の世を終結へと向かわせたのです。
幼少の頃から生涯を終えるまで、家康の意志は決してブレることはありませんでした。そしてこの鉄の意志こそが、ついに戦国の世を終結へと向かわせたのです。
偉人から何を学ぶのか
自分の愛する子供を、自分の手で殺さなければならない心境は如何ほどのものだったでしょうか。常軌を逸した痛恨の中にも、生きる希望を見出し、志を持ち続けて歩くことができた原動力は、家康自身が人一倍「死」を意識した思想家であったからに他なりません。生涯という限られた時間の中で自らの天命を知り、それを貫き通す生き方はなかなか真似できるものではありません。
私は何か困難に直面した時、「家康ならこの時どうするだろうか?」と考える癖をつけるようにしています。
その時、いつも家康の言葉が思い浮かびます。
「人は時に堪忍が必要。」
家康であれば、今の私の悩みなど一笑に付していることでしょう。
人はそれぞれ長い人生の中でいろいろな紆余曲折を経験して生きています。今の自分は、長い人生のほんの通過点にすぎないのです。
今は状況が悪くとも、志だけはずっと持ち続けることが大切。
忍耐の人家康は、自らの人生でそれを証明し、至極のメッセージを届けてくれるのです。
忍耐の人家康は、自らの人生でそれを証明し、至極のメッセージを届けてくれるのです。
<了>
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