① 徳川家康に学ぶ不動心の真髄
「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス。」
徳川家康の性格を端的に表したホトトギスの句はとても有名です。
徳川家康の性格を端的に表したホトトギスの句はとても有名です。
たくさんの偉人の英雄譚が語り継がれていますが、徳川家康ほど多くの苦難を乗り越えてきた人物はいないでしょう。常に死と隣り合わせの下剋上の時代、卓越した知略と精神力でみごと泰平の世を築き上げた稀代の名将。徳川家康の歴史小説は今、経営者の愛読書としてアジア圏でも絶大な人気を誇っていると言われています。
長かった人質生活
幼少時代のほとんどを今川家の人質として暮らした家康は、元服してから数々の合戦で武功を上げます。人質として拘束されていたため、今川家での立場は非常に弱く、合戦では常に先鋒での出陣を任されました。
先鋒は戦死する可能性が極めて高いわけですが、今川義元にとっては、家康が戦死したところで痛くも痒くもなく、戦果を上げたら上げたで好都合でした。あえて危険な任務を押し付けられていたのです。
先鋒は戦死する可能性が極めて高いわけですが、今川義元にとっては、家康が戦死したところで痛くも痒くもなく、戦果を上げたら上げたで好都合でした。あえて危険な任務を押し付けられていたのです。
桶狭間合戦でも家康は今川の先鋒として参陣し、武功を立てます。世間では今川方の勝利は100パーセント間違いないと言われており、信長との力の差は歴然でした。
しかし、戦の真っ只中にあっても、家康だけは冷静にこの戦況を見つめていました。
しかし、戦の真っ只中にあっても、家康だけは冷静にこの戦況を見つめていました。
家康は幼少の頃、護送中の事件から一時期、織田家にも人質として身を置いていました。その人質生活の中で信長との親交も芽吹いていたのです。
信長の才覚を知っているだけに、この戦はどう転ぶかわからないと考えていました。
今川家に属する武将として命懸けで戦わなければならない一方、幼い頃から親交のある信長と対峙せざるを得ないという非常に難しい局面だったのです。
信長の才覚を知っているだけに、この戦はどう転ぶかわからないと考えていました。
今川家に属する武将として命懸けで戦わなければならない一方、幼い頃から親交のある信長と対峙せざるを得ないという非常に難しい局面だったのです。
そんな最中、事態はあっさりと終止符が打たれます。
田楽狭間にて休憩中の今川義元を急襲するというとんでもない奇襲作戦で、万に一つも勝ち目がないとされた桶狭間合戦は、信長が今川義元を討つという波乱の幕切れとなったのです。
田楽狭間にて休憩中の今川義元を急襲するというとんでもない奇襲作戦で、万に一つも勝ち目がないとされた桶狭間合戦は、信長が今川義元を討つという波乱の幕切れとなったのです。
悲願の独立、そして清州同盟へ
独立した家康がまず取り組んだのは、信長との同盟でした。(清州同盟)
当時の同盟とは書簡のやり取りだけではなく、政略結婚などして人質を差し出すのが通例です。互いの実力を認める二人の同盟関係は、家康嫡男・信康と信長の娘・五徳姫の婚姻によってより強固なものとなりました。
当時の同盟とは書簡のやり取りだけではなく、政略結婚などして人質を差し出すのが通例です。互いの実力を認める二人の同盟関係は、家康嫡男・信康と信長の娘・五徳姫の婚姻によってより強固なものとなりました。
しかし、この政略結婚は悲しい結末を迎えることとなります。
信長の命により、結果的に信康は殺害されてしまいます。家康の前半生において最も耐え難い苦難は、同盟者から息子を殺害されるという想像を絶する屈辱でした。
信長の命により、結果的に信康は殺害されてしまいます。家康の前半生において最も耐え難い苦難は、同盟者から息子を殺害されるという想像を絶する屈辱でした。
<次号へ続く> 次号の記事→: ② 徳川家康に学ぶ不動心の真髄
- 作者: 横山光輝,山岡荘八
- 出版社/メーカー: 講談社
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