「不動心」育成ブログ

自分はダメだと感じている人は、実は向上心のある人。自分の弱さを知っているからこそ、人に優しくなれる。自分本来の素晴らしさを発見し、どんな環境にも動じない「不動心」を育成するブログです。ツイッター@shirota_usao

誰にも起こりうる「嫌われ恐怖症」に打ち勝つ

◼︎人から嫌われることが怖くなった私の人生経験

 私は以前、「嫌われ恐怖症」に随分苦しんだ経験がある。
 
「嫌われ恐怖症」とはいわゆる対人恐怖症の一種だ。人に悪口を言われているのではないかと考えたり、嫌われたくないために必要以上に気を遣ったりしてしまう。何よりこの「嫌われ恐怖症」のつらいところは、本人以外はまったくその苦しみが理解できないところにある。
 
数年前、身の回りが一変したある出来事をきっかけに、私は長きに渡ってこの症状に苦しめられた。
 
私の実家は田舎で自営業を営んでいる。幼い頃からの夢は、祖父が起業したこの商売を継ぎ、もっと会社を大きくすること。成人になってもその思いは変わらず、関西の私大を卒業した後、家業の道に入ることはごく自然な流れだった。この頃は、休む間もなく仕事に明け暮れていたけれど、同世代の若手社員とは仕事の面でとても意気投合し、忙しいながらも充実した毎日を過ごしていた。
 
しかし十年以上の年月が経ち、同族経営の弊害が会社をあらぬ方向へ向かわせることになる。小さな会社だったので経営陣は全員親戚のみ。ある時から、親戚同志のひがみといびつな感情が複雑にからみ、仕事とは全く関係のないところで神経を擦り減らす毎日が続いた。私は小さい頃、父親とは離別していたので、身内で足を引っ張りあう同族会社にあっては信頼できる味方が少なく、そのことも不利に働いた。
 
いろいろな経緯があり、当時社長をしていた叔父と半ば喧嘩した格好で退職することになった。
 
世間知らずの三十代半ばでは、就職活動もなかなか思うようにいかなかった。しかし、何としても妻子を養っていかなければならない。妻のお腹には三人目の子供がいたので、どんな仕事をしてでもまず収入を安定させる必要があった。
 
私が精神疾患を患ったのはちょうどこの頃である。
 
会社を辞めて後、「嫌われ恐怖症」は特に地元で知人や友人と顔を合わす時に顕著にあらることになる。
その頃、若手経営者のある団体に所属して地域活動に熱心に取り組んでいたため、地元では割と顔が知れていた。転職しサラリーマンとなれば、当然そういった経営者同士の付き合いや活動する時間は取れないし、会費を払えるような金銭的余裕もない。結局、その団体は辞めるよりほか選択肢はなく、お世話になった人に挨拶する間もないまま突然の退会となってしまった。この経験が後々まで私を苦しめることになったのである。
 
(みんなきっと自分のことを無責任な奴だと思ってるだろう。)
(家業を辞めたことも、根性が足りないと思われているに違いない。)
(これで地元の付き合いは誰一人なくなってしまった。)
(自分は何の価値もない人間だ。)
 
夜中、布団に入ってはこんなことばかりを連想し、自己嫌悪に襲われ、寝ようにも寝つけない無間地獄が続いたのだ。
 

◼︎「嫌われ恐怖症」の正体とは?

 もともと私は人が好きで、たいていの場にはすぐに馴染める性格だったのだが、三十代半ばにしてそれは全く影を潜め、他人の顔を見て笑うことさえ苦しくなるとは…。自分がこんなことになるとは思いもよらず、我ながら今の状況が信じられなかった。
 
「嫌われ恐怖症」は、私のように気遣いができ、人が好きで、繊細な性格の人に多く発症するようだ。また、思ったことをなかなか口にしない風土からか、特に日本人に多い精神疾患ともいわれる。あらゆるコミュニケーション手段の広がる今日、生きにくい社会を象徴するかのような現代病だ。
 
発症のきっかけは、精神的にまいってしまうほど酷いことを言われたりした過去のトラウマからくるそうだが、「嫌われ恐怖症」を生み出す根本は、人間の持つただ一つの感情に起因している。
 
「自分に自信がない。」
 
この感情の増幅こそが「嫌われ恐怖症」の正体である。
 
自信がないという自己嫌悪の感情がどんどんエスカレートし、ちょっとしたことでも一番悪い結末を連想する思考回路にはまってしまう。人から悪口を言われているのではないかと錯覚し、変に気を遣ったり、会話ができなくなったり、妙な行動を取ってしまうのが主な症状だ。
 

◼︎「嫌われ恐怖症」を取っ払う二つの思考法

 しかし、こんな私でも、ある時期から「嫌われ恐怖症」に打ち勝つことができた。今では、転職した先の会社から出資をしていただき、小さいながらも会社の代表として仕事をさせていただいている。この状況もまた、自分でも信じられない不思議な感覚である。本当に毎日が感謝に絶えない。
 
 では、私はどのようにして「嫌われ恐怖症」を心の中から追い出したのか。
 
それは簡単なことだ。
 
この症状の根本原因である「自分に自信がない。」という思い込みとはまったく逆の思考を絶えず持ち続けることである。
 
「自分はけっこうすごい人かも。」
 
このように口に出して言うのだ。
 
私のどん底の人生経験も、この言葉を唱えることで少しずつ好転するようになった。「自分に自信を持つ」というただそれだけのことが「嫌われ恐怖症」を粉砕し、心の外へと放り出す方法なのだ。自分は嫌われているのではないか、周りの人が悪口を言っているに違いないと思ってしまうことは、全く意味のない主観と客観のはき違えに過ぎないことを私たちは悟らなければならないのである。
 
以前、民放の番組で、ナインティナインとダウンタウンが十数年ぶりに共演するということで大々的に報じられていた。ナインティナインは若かりし頃、番組放送内で随分とダウンタウンにいじめられ以来、それがトラウマとなって萎縮してしまうらしい。互いに歳を重ね、この番組の中でようやく和解できたわけだが、ホッとして安堵の表情を見せる矢部さんの顔が印象的だった。その時ついて出てきた言葉が忘れられない。「結局は自分たちが悪かったのかな。」
 
タレントや有名人でさえ、人から嫌われたくないという意識は少なからずある。それが不特定多数であるか、特定の人であるかはそれぞれだろうが、「嫌われているのではないか。」「悪口を言われているのではないか。」という疑心暗鬼はすべて自分の心が作っているに過ぎない。十数年の時を経て、ようやくそのことを理解した矢部さんの一言だったのである。
 
そして、もしどうしても嫌われたくないという意識が払拭できないのであれば、次のように考えるのだ。
 
「嫌われる人もいて普通。」
 
どんなに名声のある素晴らしい人物でも、歴史上の大偉人であっても、嫌われた人が誰一人いなかったということはないのである。万人に好かれようとすること自体、無謀な行為なのだ。
 
私たち人間は、それぞれ顔つきが違うように性格も多種多様にできている。性格の不一致は起こるべくして起こり、人物の好き嫌いはあって然るべきなのだ。
 
「嫌われ恐怖症」は人間であれば多かれ少なかれ誰もが持っている感情だといえる。自分がどのように受け入れ、どのように思うか。「主観」という自分の心の中に、他人がどう思っているかという「客観」を身勝手に持ち込んでいるだけに過ぎないのである。
 
「僕(私)はけっこうすごいかも。」
「嫌われる人もいるのが普通。」
 
この二つの言葉を繰り返し唱え、私たちは「嫌われ恐怖症」を心の中から駆逐しよう。そして、過去のトラウマを忘れてしまうくらい新しい経験を積んでいくことが、未来を開拓する糧となるのである。
 
鈍感力 (集英社文庫)

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